北海道立啓成高等学校同窓会 雪笹会 YUKIZASA-KAI

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雪笹会

恩師は今

田中瑞枝 先生

昭和43年4月から56年3月まで啓成高校に在職。3期、6期、9期、12期の担任を務めた。現在は西区山の手に在住。

啓成高校のあと、札幌星園高校を経て、札幌新川高校を最後に定年退職。その後、朝日カルチャーセンターの講師を続けている。現在担当している講座は「アメリカの短編を英語で読む」。月2回の授業は、高校生を相手に教えるのとは違った楽しさがあるという。もちろん英語の勉強は続けている。



朝日カルチャーセンターのこと

 平成11年にカルチャーから、英文法の講座を、との話があり、面白そうだ、と即引き受けたのですが、参加者の年齢も経歴も分からず、取り敢えず高校1年の教科書で始め、以来約3年ほどで、高校3年から受験問題レベル迄、進みました。その間、受講者の顔ぶれが変わったりしましたが、皆さん、非常に熱心に参加して下さいました。中で、読み物も読んでいたのですが、何か纏まった物を、ということで、それが今に至るまで続いているのです。
 色々なジャンルのものを読みましたが、結局、小説を、ということになり、今のグループは、3年程前からで、最初は小泉八雲の怪談、次にイギリスの女流小説家マンスフィールドの短編集、と進んで現在のアメリカの短編小説に至りました。
 講座の中では、それぞれが感想を述べあったり、疑問を出し合ったり、時には侃々諤々、議論に及ぶこともあります。私は研究者でも学者でもありませんので、そうしたことに断定する程の力がありませんので、英語構文上の取り違えに対する注意とか、時代背景等を説明するくらいですが、そうした自由な雰囲気が長続きの理由かも知れません。中には訳本を探してくるメンバーが居て、その訳は変だ等と、又、議論の種になったりします。そんな自由、かつ真剣な雰囲気が高校の(日本の?)授業とは違った楽しい活発な時間になっています。12月からは、アメリカの短編小説でも特に家庭問題を扱ったものを読むことにしています。
 取りあえず、カルチャーで話をしなければならないので英語・英米文学からは離れられません。で、毎週一回、会話スクールに通っています。小さいクラスなので気楽ですが、新しい表現や単語は、頭に入らず、次の週には忘れている、という有様!やはり、鉄は熱いうちに打て、との格言は正解です。
 有り難いことに、学生時代、教師時代の友達とは、未だに平均月一位、読書会を行っています。老眼が進み、辞書も細かい文字の書物も、日が暮れると読むのが辛いのですが、会に出席するためには、筋だけでも理解しなければ、悪銭苦闘しています。今は主としてカナダの女流小説家の作品を読んでいます。まあ、頭の体操ですね。
NHK教育のブンガクという放送は、ボーッと眺めているだけで英語の聞き取りにもなる楽しい番組です。

田中先生は今年の9月まで西区琴似にあったくすみ書房(現在は厚別区大谷地に移転)が行っていた店内での朗読の読み手として、毎週2回本の朗読を行っていた。最後の朗読は「徳川家康」。この店で行っていた朗読はよくマスコミに取り上げられていたが、そのときにはいつも田中先生が登場していた。

朗読のこと

 久住さんが大谷地に移ってからはご縁が無くなりました!元々、退職後、間もなくから西野で読み聞かせの施設を開いているお宅へ顔を出しているのですが、そちらで紹介されたのが始まりです。読書が好きなこと・大きな声を出すのに慣れていること・人前で話すのが気にならないこと・そして何よりも比較的近いこと等が長続きした理由か、と思います。店長さんから最初に言われたのは、岩波文庫に収録されている作品の中から15分位のものを、とのことでしたが、それも限りがあるので次第に各自、好きな作品を、ということになりました。
 朗読する希望者の登録はかなりの人数だったのではないでしょうか? 山岡荘八の徳川家康に関しては、朗読会も長く続いたので読む物も、何か長いものを、と選んだのですが、結局は、お祭り騒ぎの好きな人間は、私の他、二人だったのには笑ってしまいます。只、結果として、あれ程膨大な作品を朗読するのは、多少の強制が無ければ出来なかったと思います。武将人気の昨今、得難い体験でした。そもそも、毎日5時から朗読のために店の一角を提供するという企画は地域活性化の為に役立つ久住さんの大英断だったと思います。私自身、朗読を通じて友人・知人が増え、いまもお付き合いが続いています。

啓成時代のこと

 今、考えると、何であんなことを言ったのか、あの私の言葉や態度で、彼は、彼女は、どれ程傷ついたか、ヒョッとしたら、未だに人生に影を落としているのではないか、と思うことが沢山ありますが、これは、もう仕方がない!あの世で再び顔を合わせたら謝ろうと思っています。
 又、校舎もない野原というか、原野の真ん中に立つ新設校、しかも札幌の、というだけで高揚した気持ちで赴任したのですから、本当に頭の中は啓成の思い出がビッシリです。しかも、当時は、女には担任は持たせない、とあからさまに言われた時代の名残があったので、ますます・・・それが、3・6・9・12期と12年続けて担任をすることになったのには、今から思うと私も元気でしたね!

田中先生を囲んで思い出話を聞くために、9期3組の14人が集まりました。

9期生のこと

1 制服自由化になったのは、9期の時でしたね(9期生が入学した昭和49年の秋から試行実施され、翌年4月から正式に自由化になりました) 私服になっても全く問題はありませんでしたね。卒業式にはクラス代表のN君が和服で登場しました。新しい学校としての試みを全く心配ないで託せる学年でした。それは多分、後にも先にも、あの期だけが2年3年の持ち上がりで、それだけに生徒だけでなく学年団の教員も一致団結みたいな気風があったからでしょう。

2 よく学び、よく遊んだな、と思います。学校祭の時の映画制作! しかも二年続けてですから、その熱意には脱帽でした! 担任サイドから見ていると、比較的みんな仲良し的雰囲気が感じられたのですが???(8mmフィルムで映画を作りました)
  二年のときのキャンプのクラス全員参加!凄かったですね。ご家庭でも、よく許して 下さった、と今も感謝しています。昨今の学校では考えられない、許されない学級行事です。しかも、引率は、副担の今は亡き大塚先生と担任のたった二人でした!(2年生の冬休みには、近所から、杵と臼を借りてきて体育館で餅つきをしました)

3 ポートランドからの元気な留学生の受け入れに協力してもらったことも有り難い 記憶です。見学旅行の際にもよく面倒をみてもらいました。

卒業生へのメッセージ

 卒業生へのメッセージというのは、最も苦手とするものの一つですが・・・
1年に何度か、各期の卒業生の集まりに声を掛けられ、覚えていて下さったことに感激してノコノコ出掛け、その度に感ずるのは「私には敵わない生き方をしている」ということです。
 それは、どの期の、どなた、といった狭い意味でなしに、一人一人が、立派に社会の一翼を担って暮らしている、と感じるからです。
 少なくとも、私は自分のことのみ(と猫のこと)を考えて、日々を過ごしているのですが、大抵の方たちは、仕事・家族・地域等々に対して責任ある立場で暮らしています。勿論、よそ目には分からない重荷を背負っているでしょうし、又、それがある意味では当然の年代に差し掛かっている皆さんです。でも、高校時代の顔を思い浮かべると、心の底から立派になったなあ、と感嘆するのです。
 ですから、今の私が敢えて言葉にするとすれば、兎に角、真面目に、愚直に生きること、でしょうか?一つだけ、退職した今、反省していることは、教壇からもっとあからさまに伝えておくべき事があったのでは、というです。
 つまり、私の世代が多分、あの世界大戦を多少なりとも経験した最後の人間> だったのです。敗戦の時は国民学校(小学校)2年生でした。現在は、経済を初め、将来に対して不安材料ばかりです。そんな社会だからこそ、時流に流されることなく、一人一人が眼を大きく開いて、世の中をシッカリ見据えて日々暮らして頂きたい。敢えて言えばこれが、メッッセージでしょうか?
 そして、もう一つ。健康にくれぐれも留意して頂きたい。無論、こればかりは、努力してもどうにもならないことがあります。現代の日々発達する医学の力をもってしても悲しい結果になることもあります。しかし、私の年齢になると、若い人、卒業生の訃報程、寂しいことはありません。今年(平成21年)も、3期、9期の方の葬儀に出席、悲しい思いをしました。どうか、無理をせず(と言っても、それ自体が無理でしょうが)暮らして下さい。

写真は、田中先生を囲んで思い出話を聞くために、9期3組の14人が集まったときのものです。場所は、「おとうちゃん」(南2西5新宿通りタカセビルB1。9期7組の平野良治さんが経営している店です。この店には9期生がよく出入りしています。)

2009.12.12

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